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悲しい事件を知って…ボヤキ。

今回は暗いです。
文字だけです…
痛ましい事件のニュースを見て
なんとも言えない虚無感に襲われることがあります。
「一人で死ね」「周りを巻き込むな」みたいな主張はごもっともで私もそう思っています。
ただ同時に、それを言っても何の意味もないなと思い悲しくなります。
自分の命に価値を見出せない人に「人を殺すな」と言っても意味がないんじゃないのか。人を殺してはいけないという概念は通用しないんじゃないかと思います。
そもそも人を殺していけない理由は…
殺人を許せば同時に自分は殺されてもいいことになりますよね。だから自分の命を守るため、大切な人の命を守るためには『人は殺してはいけない』と定めるしかなく道徳や宗教の答えなどはこれ以上の効果を持ちません。みんなが共通で当たり前と思っている「殺人はダメだ」という概念はただそれだけのことで、みんな言わないけども分かっているのだと思います。
実際仏教では殺生をすれば地獄に落ちるけれども、それに怖れをなして殺生を避けて生きようとする人は稀有な存在ですよね。本当はそれが正しい生き方なのだと思いますが、なかなかそのようには生きていけないのが私の姿だと思います。
「人を殺してはいけない理由が自分が傷つかない為」ということになれば
『自分は死んでもいいから私は人を殺したい』という人には人を殺してはいけないという概念が通用しないことになります。
そんな人に「一人で死ね」とか「人を殺すな」とか言っても何の抑止力にもなりません。
だから自分の命の価値を知ってもらうしかないと思います。
人間に生まれるということがどれだけ価値のあることなのか。どれだけ凄いことなのか。どれだけチャンスのあることなのか。それを知る必要があります。
ただし・・・これは私の主観以外の何物でもないですが。
道徳などを前提にした「生きているだけでいいんだ」みたいな話はつまらないです。
親の気持ちを考えろ、とか、あなたを必要としている人がいる、とかそんな話かな…。
優生学とかそんなんじゃないけども道徳や哲学などを羅列しても「私は生きているだけで周りに迷惑をかけ続ける存在で、価値のない人間だ」と思ってしまっても仕方ないような気がします。「障碍者を馬鹿にするな、お前だっていつ障碍者になってもおかしくないんだぞ」みたいな話…・そんなバカな言い方あるか!って思ってしまいます。
そうじゃなくて、私の価値は私や周りや社会に問うんじゃなくて、命の価値はお経典に、仏様に問わなくてはいけない。これが仏教の姿勢です。
なぜ命は大切なのか。それはお経典を読めばわかります。自分が今ここに生まれて生きていることがどんだけあり得ないことなのか。
お経には人に生まれることの難しさが示されとにかく私の命はめちゃくちゃ価値があるということがわかります。何より尊い仏様が私の命を尊いと言ってくれるのですから、私の命は尊く価値があるのです。
そのことをお釈迦様は『盲亀浮木』の譬えをもって説かれ、それを知らずして死んでいくことを源信和尚は「宝の山に入りて手を空しくして帰る」と表現しておられます。仏教の話というのは宗教の話だからしょーもないと感じる人もいるだろうと思います。でも命の話は道徳や哲学では頭打ちになると思っています。なぜ命が尊いのか、なぜ一人一人が尊い存在なのか、これは宗教が受け持つジャンルなんじゃないかと思います。
居酒屋でお酒飲みながらダラダラと語りたいです。なんかつらいです。

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住職 枝廣慶樹
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。お坊さんYouTuber 広島県福山市にある浄土真宗本願寺派明石山崇興寺の十三世住職。二十七歳で結婚し現在2児の父。崇興寺が地域に愛されるお寺となれるよう日々精進しています。趣味はバンド活動と一眼カメラ。バンドではギターコーラスを担当。一眼カメラで撮った写真をInstagramにアップしてます。